維新はファシズムなのか
2022年1月21日の菅直人氏による「ヒトラー発言」以降、日本維新の会を「ファシズム」に擬える声が、今まで以上に頻繁に聞かれるようになった。
ヘイトスピーチの意味がわかってない。維新は、大衆扇動で立憲民主党を攻撃するファシズム政党だ。
— 肉球新党「猫の生活が第一」 (@cat_pad299) 2022年1月25日
維新・松井一郎代表「言ってはならないヘイトスピーチ」 菅直人氏の“ヒットラー投稿”立憲に文書で抗議(スポニチ)#菅直人元首相を支持します #維新はヒトラー
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ファシズムを許さないというのは、人類が歴史の中で学び取ったことだ。膨大な犠牲を経て。それと闘うのは知性を持つ者の最低限の務めだ。
— 三春充希(はる)⭐Mitsuki Miharu (@miraisyakai) 2022年2月13日
※明示していないが、前後の文脈から主に維新を指しているとみられる。
いずれにしましても、私の「ファシストとは何があっても同席しない」という立場は、変わりません。
— 石垣のりこ (@norinotes) 2022年2月14日
※こちらも前後の文脈から、維新を指しているとみられる。
こうした投稿を見て直感的に「いや、維新はファシズムではないだろう」と思った。ただ、そのように否定できるだけの論拠があるのか、自分でも心許ない。
そこで、維新をファシズムと呼ぶことに妥当性はあるのか、真面目に考えてみる。
あらかじめ断っておくと、筆者は日本維新の会の支持者ではない。むしろ維新に批判的な立場である。しかし、だからこそ誤ったレッテル貼りは好ましくないという観点からこれを書いている。
ファシズムの定義はさまざまあるが、ここでは言語学者ウンベルト・エーコが1995年に発表した小論『永遠のファシズム』を参照する。
この小論のなかでエーコは、ファシスト政権下のイタリアで生まれ育った自身の経験を回想しつつ、さまざまな国で勃興したファシズムには共通する14の典型的特徴があると述べている。エーコはこれらの特徴を備えたファシズムの類型を「原ファシズム(Ur-Fascismo)」と名付けた。
このエーコによるファシズムの定義は、英語版Wikipedia「Definitions of fascism」で、学者による定義の筆頭に記載されている。おそらくそれほど偏った定義ではないはずである。
これら14項目の「ファシズムの典型的特徴」が日本維新の会にあてはまるかを見ていきたい。
※以下、引用は特記がない限り『永遠のファシズム』(和田忠彦訳、岩波現代文庫)より。
1. 伝統崇拝
人類にとっての重要な啓示が、さまざまな宗教の聖典・古代文字などに含まれており、そのメッセージを読み解くことで真実に辿り着けるという考え方。エーコはこの具体例として、アメリカの書店の「ニューエイジ」のコーナーに聖アウグスティヌスとストーン・ヘンジが並列に並んでいることを指摘し、これが「原ファシズムの兆候」だと述べている。
日本にもこうしたオカルト的な思想を持つ人はいるが、おそらく維新との親和性は低い。
2. モダニズムの拒絶
啓蒙主義や理性の時代は、近代の堕落のはじまりとみなされるのです。この意味において、原ファシズムは「非合理主義」であると規定することができます。
フランス革命やアメリカ独立宣言以降の近代が、人間を堕落させたとみる考え方。
これも維新とは無縁だろう。強いて言うなら、かつて維新の共同代表をつとめた故・石原慎太郎氏は、あるいはこれに近い思想を持っていたかもしれない。
3. 行動のための行動
非合理主義は〈行動のための行動〉を崇拝するか否かによっても決まります。(中略)ゲッべルスの言葉として伝えられる「〈文化〉と聞いたとたん、私は拳銃を抜く」という発言から、「インテリの豚野郎」「ラディカル・スノッブ」「大学はコミュニストの巣窟だ」といった頻繁に使われる言い回しにいたるまで、知的世界に対する猜疑心は、いつも原ファシズム特有の兆候です。
「行動すること」そのものに高い価値を見出し、思索をそれより一段下に見る態度。
これは維新にあてはまる可能性がある。橋下氏が学者や評論家などを「口だけ」とこき下ろしていたのは、よく知られているところである。「維新はやる。」というキャッチコピーからも、行動を何より重視するという哲学が感じとれる。
4. 意見の対立は裏切り行為
健全な批判を認めず、意見の対立はすなわち裏切りであると考える偏狭な態度のこと。
この件で思い起こされるのは、橋下徹氏や松井一郎氏をはじめとする維新の政治家が、意見の対立する言論人を相手取ってたびたび訴訟を起こしてきたという事実である。つい先日も、松井氏がタレントの水道橋博士に対して訴訟をちらつかせるということがあった。
これらの事例を見れば、仮に維新が与党になって国家権力を掌握した際に、批判者に対して強権的な姿勢をとるのではないかという懸念はもっともである。したがって、この項目は該当する可能性がある。
5. 差異の恐怖
原ファシズムは、人が生まれつきもつ差異の恐怖を巧みに利用し増幅することによって、合意をもとめ拡大するのです。(中略)ですから原ファシズムは、明確に人種差別主義なのです。
人種差別主義はホロコーストに代表される数多の悲劇を生んだ主因であり、この項目はとりわけ重要である。しかしこれは維新にあてはまらないと私は思う。
2014年、当時大阪市長だった橋下徹氏は在特会会長の桜井誠氏と公開の意見交換会を行った。この時に橋下氏は、ヘイトスピーチを繰り返してきた桜井氏に対し「お前みたいな差別主義者は大阪にはいらない」と激しく罵倒している。このことからも、橋下氏が人種差別主義者でないことは明らかである。
また、2021年に維新の議員が被差別部落民を指す言葉を用いて侮辱をしたとして訴訟を起こされたが、これに対して松井一郎代表は記者会見で次のように発言した。
それ、事実やったら、僕はもう井上議員にも、それが事実なら議員辞職せえよって言ってます。だから今、それ裁判で争っているんでしょう。だから今、裁判で争っているときに、それどっちにも言い分あるじゃない。だから、その発言、本当、事実やったら、僕が一番許されへんので、辞めさせます。
当然のことではあるが、松井氏はこの問題について「事実なら許されない」という真っ当な認識を示している。かつて長谷川豊氏が類似の差別発言をした際にも、維新は処分を行った。これらの事実からしても、維新が党として「差異の恐怖」を利用しているとはいえないだろう。
6. 欲求不満に陥った中産階級へのよびかけ
下層階級からの圧力や経済危機など、なんらかの事情によって不満を抱えた中産階級をターゲットとするのがファシズムの特徴だという。
維新のコアな支持層が、「自分達の払った税金の使い道がおかしい」と不満を感じている現役世代だということはしばしば指摘されている。これを不満を抱えた中産階級だと考えれば、ある程度の共通点はあるかもしれない。
7. 陰謀の妄想
人の心に潜む排外主義的な感情に呼びかけ、敵と目された人(ユダヤ人など)が陰謀をめぐらせている、と妄想すること。
「日本は反日勢力に支配されている」と主張する人々は、これに近い思想を持っていそうだ。しかしこうした人々が支持する政党は維新ではなく、主として自民党であろう。維新は中国や北朝鮮に対しては強硬派だが、陰謀論はとっていないはずである。
8. 敵は強すぎたりも弱すぎたりもする
敵(ユダヤ人など)がレトリックのからくりによって時に強大になり、時には弱小になるという、ファシズムにありがちなご都合主義のこと。エーコは、ファシズムはこの特徴のために「敵の能力を客観的に把握する能力が体質的に欠如している」と指摘している。
これも維新にあてはまるかどうか微妙である。維新の党勢拡大戦略は実利的かつ合理的であり、他の野党と比べても的確な情勢分析能力を持っているように見える。
9. 生は永久戦争である
生は闘争のためのものであり、平和主義は馴れ合い・悪であるという考え方。エーコはこうした特徴がファシズムを必然的にハルマゲドン、最終戦争に向かわせるとしている。
維新は「是々非々」を標榜し、「反対ばかりの党ではない」と自認する一方で、立憲民主党や共産党を執拗に攻撃し続けるような好戦性も併せ持つ。したがって、この項目をどう評価するかは難しい。私は「永久戦争」と呼べるほどのエキセントリックさが維新にあるとは思わないが、維新を闘争性の高い政党だと評価する人もいるかもしれない。
10. 弱者蔑視
エーコによれば、反動的イデオロギーはエリート主義に支えられており、あらゆるエリート主義は弱者蔑視を伴うという。
維新に弱者を蔑視する考え方があるか。私はないと思う。一般に、自助努力を信奉する政党は社会的弱者に優しくない政策をとりがちではある。しかし、弱者軽視と弱者蔑視は、言葉尻は似ていても本質はまったく異なる。弱者蔑視とまで言いうる体質が維新にあるとは、私には思われない。
ちなみに、維新の馬場氏や足立氏が使う独特の政治用語に「豪族」というものがある。これは「既得権益を握っている自民党」のことを指す。維新はそれに対抗する一般市民の代表という位置付けである。これなどは一種の反エリート主義といえなくもない。
11. 死の崇拝(英雄主義)
いわゆる特攻精神のようなもの。これはおそらく維新と無関係。
12. マチズモ
永久戦争にせよ、英雄主義にせよ、それは現実には困難な遊戯ですから、原ファシストは、その潜在的意志を性の問題にすりかえるわけです。これが〈マチズモ〉(女性蔑視や、純潔から同性愛にいたる非画一的な性習慣に対する偏狭な断罪)の起源となります。
政治家による女性蔑視発言や同性愛差別発言はこれまでたびたび問題になってきた。故・石原慎太郎氏をはじめとする、たちあがれ日本から維新に合流した政治家の一部にはマチズモ的な思想傾向があったと思われる。杉田水脈氏もかつて維新に所属していた。
とはいえ、たちあがれ日本系の議員のほとんどはすでに維新を離れている。現在、維新の中核となっている大阪維新系の政治家には極端な女性蔑視や同性愛嫌悪は見られない。
大阪府は2020年、維新の吉村洋文知事の下で、都道府県としては全国で二番目に早く同性パートナーシップ証明制度を導入している。この事実からも、現在の維新がマチズモ的な思想を持っているとは考えにくい。
13. 質的ポピュリズム
原ファシズムにとって、個人は個人として権利をもちません。量として認識される「民衆」こそが、結束の集合体として「共通の意志」をあらわすのです。
なにやら難解な話だが、エーコはこの項で現代におけるファシズムの例として〈テレビやインターネットによる質的ポピュリズム〉という表現を用い、「選ばれた市民集団の感情的な反応が「民衆の声」として表明され受け入れられるという事態が起こりうる」と述べている。
これを私なりに解釈すると、例えば一斉に電凸をするとか、コメント欄を同じ意見で埋め尽くすといったような、集団が結束して同一のアクションを起こし、政治的圧力をかける行為が該当するのではないかと思う。政治指導者が増幅された一部の民衆の声を利用し、その「共通の意志」の代弁者として振る舞うのがファシズムの常套手段だということである。
では、現代日本でこうした示威行為を頻繁にやっているのはどういう層なのか。目立つのは安倍晋三氏・高市早苗氏を支持するような右派、そして野党共闘支持の左派だろう。維新支持者の声がそこまで大きいかと言うと、決してそうは思えない。維新支持のボリュームゾーンは、むしろネットや街頭で声高に叫ばない、政治的に静かな人たちではないか。
あるいは、橋下氏や吉村氏は在阪テレビ局を巧みに利用して民衆の感情的な反応を煽っており、それがファシズム的なのだという見方もあるかもしれない。維新とマスメディアの関係は厳しく監視されるべきだが、とはいえ私はその見方にも懐疑的である。というのは、維新にはファシズムにはつきものの「熱狂する支持者」の姿が意外なほど少ないからだ。
それは、例えばアメリカのトランプ共和党政権と比較すれば明らかである。トランプ政権こそ、まさにテレビやインターネットで民衆の熱狂を煽り、大統領がその代弁者として振る舞うという「質的ポピュリズム」を体現した政権だった。その末路が2021年の議事堂襲撃事件である。維新の支持者には、トランピストのような熱狂は感じられない。
維新支持の広がりは、むしろ2000年代日本の民主党を想起させる。民主党は短期間のうちに自民党を超える支持を獲得して政権交代を成し遂げたが、熱狂的に民主党を信奉する親衛隊のような支持者はほとんど見られなかった(だから政権奪取後に熱気は急速に冷めていった)。維新の伸長も、かつての民主党への期待と近い「平熱の支持」ではないか。
14. 新言語(ニュースピーク)
エーコによれば、ファシストは批判的な思考を妨げるために、あえて貧弱な語彙と平易な構文を使うという。新言語(ニュースピーク)という呼び名はジョージ・オーウェルの小説『1984』から取られている。
維新の政治家が、特に他党とは違う語彙を用いているという印象はない。足立康史氏の言葉遣いは独特だが、これは維新というより足立氏個人の特徴だろう。過去にも浜田幸一氏など特異な言動の政治家はいた。
以上、14の項目を見てきた。あてはまる可能性が高いと私が思うのは、3(行動のための行動)、4(意見の対立は裏切り行為)、6(欲求不満の中産階級へのよびかけ)の3項目。また要注意なのが9(永久戦争)だろうか。
これを多いと見るか、少ないと見るか。
エーコ自身は「どれかひとつ、特徴の存在が確認されれば十分」だと言っている。その言に忠実に従うなら、維新の会をファシズムと呼ぶ妥当性は十分あるといえる。
ただ、この程度の符合で維新をファシズムと呼ぶのは、さすがに認識が粗雑ではないかと思う。例えば4(意見の対立は裏切り行為)や13(質的ポピュリズム)などは、立憲民主党や共産党などの左派や、自民党右派にも時としてみられる特徴である。どんな政治勢力もファシズムに陥る危険性は常にあり、警戒すべきは維新だけではないはずだ。
なお、本稿の趣旨とは外れるが、アメリカのトランプ政権について考えてみると、あてはまる項目数が尋常でなく多いことに驚かされる。「伝統崇拝」「差異の恐怖」「陰謀の妄想」「マチズモ」「質的ポピュリズム」「新言語」など、いずれもトランプ氏やその支持者の言動に思い当たる節がある。トランプ政権は明確にファシズム傾向を持った政権だったといえるのではないか。
さて、こうして長々と書いてきたのは、維新を弁護するためではない。
私は維新が唱える「解雇規制緩和による労働市場の流動化」に反対である。この政策は経済格差を拡大させ、日本社会の不安定化を促進すると考えている。
解雇規制緩和のような新自由主義政策はファシズム的ではない。一般にファシズムは統制経済と親和性が高い。ナチス政権下のドイツでは雇用が重視され、大規模な公共事業や兵役によって失業率が劇的に低下した。つまりファシズムは新自由主義とは対極にある。
エーコはファシズムを「非合理主義」と断じたが、維新はこれにもあてはまらない。維新の行政改革は、社会保障の複雑な制度をベーシックインカムに一本化し、行政機構を極限までスリムな構造に刷新するというものだ。ペーパーレス推進や業務のオンライン化にも熱心であり、無意味な慣例を極端に嫌う。徹底した合理主義こそ、維新の特徴といえる。
ファシズムのもとになった言葉「ファッショ」は「束」を意味する。その名が示す通り、ファシズムは社会の構成体の結束を重視するコーポラティズム(協同主義)をとる。これに対して、維新が掲げる政治理念は「自立する個人、自立する地域、自立する国家」であり、個人の自立が重視される。この面でも、維新はファシズムとは逆向きのベクトルを持っている。
このように、維新はファシズムと相反する特徴を数多く持つ。安易にファシズムに擬えれば、維新という政党の実像を見誤り、その政策を正当に評価できなくなる。このことの危険性に敏感であるべきだと私は思う。